明治石版画 NFTアートコレクション

【明治石版画 NFTアートコレクション】
Japanese Lithographs
Meiji Period

当コレクション「Japanese Lithographs Meiji Period」は、江戸川乱歩や種田山頭火など明治の文人等の作品を数多く輩出する出版社”春陽堂書店”が所蔵する『明治の石版画(昭和48年6月発売)』をデジタル画像化し、NFTアートへと昇華したコレクションです。

この画集は春陽堂(当時の社名)の創業100周年記念出版の一環として、名品を厳選し初版原本により複製筆彩による限定500部で刊行されたものです。

明治の風物研究資料として、また美術鑑賞用として当コレクションをご愛蔵いただければ幸いです。

特徴
  1. 日本の石版画は儚い命
  2. 浮世絵と写真のあいだ
  3. 作者不詳のアート作品

■NFT購入特典
・NFTに紐付けられたコンテンツ画像を、SNS のアイコンに使用できる
・デジタルパンフレットがもらえる

美人画の部:10点

浮世絵は二百数十年、石版額絵は明治 10 年頃から 20 年代に至るわずかに十数年のものである。浮世絵の美人画は、菱川師宣(????〜1694)から月岡芳年(1839〜1892)、水野年方(1866〜1908)にいたるまで、容姿風俗に幾変遷を経ているが、石版画の美人画は明治初・中期のそれに限られている。つまり明治一色の美人である。文明開化の幕があき、いわゆる鹿鳴館時代がしばらく続く。あたかも石版画絵の隆盛期に偶然出会い、貴顕の婦人はロングスカートの裾をひいて、ダンスに興じた。しかし一般庶民はおてんばを排し、貞淑を旨とする封建の風は根強くのこっていた。したがって、石版画にあらわれる美人は、その容姿に嬌態を誇示するような仰々しいところがなく、しとやかな内にひそむ美人を目指しているようである。

また明治の美人といえば、前代からの慣習によって、芸妓の容姿を第一とする。つぎに身分が高く、名声がある紳士の令嬢と続く。錦絵のように茶屋の評判娘や、また現代のように巷の歌手や舞姫が登場することはまずない(風俗絵は別とする)。

だいたいが写真のポーズに相通じるものがあるが、写真と石版画の伝来には、たがいに相含むところがあるのである。あるポーズの美人が当たりをとると、たちまち他の石版所がこれに似たポーズのものを刊行する。わずかに衣裳の模様を変えただけで、ほかに変わりがない。また洋装、和装二人立ちの美人が評判になると、左右を入れ替えたり背景を変えたり、同様のものが他社から続々と出る。それは古く錦絵にもあったことであるが、商業主義に操られたのであろう。

1.東京藝妓奴
1878 年(明治 12 年、玄々堂、平木政次・画)

「私がこれまでに見た石版額絵の美人として最古のものである」と吉田小五郎はいう。また前述した『平木政次の思い出の中に「私は二回目の石版からは東京で有名な芸者の半身像を描くことにして云々」とあるそれではなかろうか』とも解説文で記す。描写も確かであり、色彩は手がたく、おそらく色彩も平木自身のものであろう。のちの20年以後のそれと違い、仕事は丁寧であり、堅実である。平木は明治 6 年、備中の国高梁からはるばる横浜に来り、五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)の門に入り、洋画を修行し、のち玄々堂の人となって盛んに石版画を描いた。

2.新吉原銘妓喜代
1881 年(明治15 年、出版人亀井至一、画工浅間利恵子)

隅田川に浮かぶ屋形船を背に、よい姉御と呼びたげな芸妓喜代女の美しい姿である。当時、すでに芸妓の間において束髪がかなり流行したというが、石版額絵に出てくるそれは、洋装のものを除いてほとんどみな日本髪である。黒繻子の衿をかけた着物からはみ出る大きな半衿、これが当時の流行であった。黒い羽織と繻珍の帯、袖口からのぞいた赤い下着、島田に結った髪に珊瑚の簪、うまく取り合わせてある。

3.東京今春名妓於柳
1881 年(明治 15 年、出版人亀井至一、画工浅間利恵子)

今春芸妓とあって、新橋駅と鉄道馬車と人力車が背景になっている。禿(かむろ)と連れだつ若い無邪気な芸妓お柳のあどけなさ。着物はたぶん縮緬であろう。鶯色の無地で、模様のないのがまた洒落ている。向こうの空に雲がたなびいているこの気分は、錦絵では表わしてみようがない。ほのぼのとした一幅の風景、明治石版画の醍醐味である。

4.東京下谷藝妓小幾
1882 年(明治 16 年、画工兼出版人亀井至一)

作者の亀井至一は江戸の人。1843年(天保 14 年)下谷同朋町に生まれ、横山松三郎について洋画を学ぶ。かつて報知新聞紙上に画筆を揮い、また玄々堂にあって多くの石版画を描いた(子弟を養って自ら石版所を経営したようでもある)。『洋風美術家小伝』(明治 41年、本多錦吉郎著)に、「君常に人の需に応じて肖像画を作る、艶麗にして世の人々の心を、満足させた。君の最も得意とする所は美人画なり」とあるが、この一図、上野の不忍池畔の東照宮を背景とし、そのポーズの採り方はさすがである。砂目もまたよくきいている。

5.婦女唱歌之圖
1887 年(明治 21 年、画工兼発行人荒川藤兵衛)

日本の洋楽は軍隊の鼓笛隊と協会の讃美歌に始まるというが、1872 年(明治 5 年)学生が頒布され、小学校の教科に「唄歌」、中学校のそれに「奏楽」とあるが、「当分之を欠く」と書いてある。実行すべく何の準備もなかったからであろう。1879 年(明治 12 年)、文部省は音楽取調掛を創設した。その直接の動機となったのは、当時在米中の目賀田種太郎と伊沢修二の文部大臣に対する勧告による。音楽取調掛は 1885 年(明治 18 年)、音楽取調所と改称、さらに 1887 年(明治 20 年)、東京音楽学校となった。日本で初めて学校に唄歌を実地に教えたのは、東京男子、女子の師範学校で、本図はお茶の水女子師範学校の附属小学校のそれだという。ほほえましい風景である。ちなみにオルガンは 1881 年(明治 14 年)、すでに国産されている。

6.柳橋校書於千代
1887 年(明治 21 年、画作人福宮源次郎)

元柳橋の橋際に立つ美人は蛇の目の傘をさしている。いとも謹直そうな顔立ちである。繻子の衿をかけた着物は八丈か、それに銀杏模様の衿をあらわに見せている。あいも変わらず柘植の櫛と珊瑚の簪、またかとも思われるが、これが当時の風俗だったのである。銀糸の雨に燕が一羽ひるがえっている。線で描く錦絵の美人とは違って、まこと写真のような生き写しの容姿は石版画なればこそである。この一図はとくに色彩がよい調子である。

7.貴顯之令孃
1888 年(明治 22 年、画作兼発行人中井孫治)

1888 年(明治 22 年)の令嬢、驚かせるではないか。このまま今の銀座を歩かせても不自然でははい。当時としては着物の模様が思い切って派手であるが、容姿はどこか﨟たけて見える。髪飾りにバラをあしらったのは明治のこの頃のハイカラの特色で、みなバラの花をさしている。この図はよほど評判をとったとみえて、同じポーズのハイカラ美人の額絵が なかなか多い。これはその中の優品を選んだ。

8.東京美人姫松・梅女
1888 年(明治 22 年、画作兼発行者熊沢喜太郎)

右は洋装、左は和装、ともに芸妓である。鹿鳴館はなやかだったころ、芸妓の洋装は珍しくなかった。それに束髪が経済的で衛生的だとあって大いに流行した。この美人二人の寄り添ったところ、なかなか良いではないか。洋装と和装の二人立ち美人の対象が時代に投じたとみえて、この類の額絵が各石版所から盛んに刊行された。この一図、ポーズも色彩もなかなか妙味があり、佳作といいたい。

9.華族令嬢
1889 年(明治 23 年、発行兼印刷人矢島智三郎)

飛びきりハイカラな華族の令嬢。華族女学校の校門を颯爽と出でたつところである。当時流行のダンスレッスンに急ぐのであろうか。同じ図のまったく違った色ざしのを見たが、このほうがよい。明治の石版画は同じ図でも選択の余地があるのである。芳村の署名があるが姓は不明である。

10.貴嬢乃遊覧
1889 年(明治 23 年、画工兼発行人吉原秀雄)

人力車に相乗りしているのは二人とも身分が高く、名声がある紳士の令嬢である。洋装の人も和装の人も共に﨟たけて見える。この年、上野で開かれた第三回勧業博覧会を見ての帰りであろう。車に少し不自然なところがあるが、うまく構図をまとめてある。これは 1889 年(明治 23 年)の作、これから 2年たつと、もう美しい石版画は姿を消すことになる。

風景画の部:10点

江戸時代も末期になって錦絵の名所図絵が盛んに刊行された。人はいながらにして他国の風景にあこがれるのである。その心持ちはいつの時代も変わらない。江戸が東京と変わると、いわゆる開化の姿になり、錦絵は大・中・小、いかに多くの東京図絵を出したことか。そこへ石版画がはいってきた。写実、写真、生き写しの風景、それはある意味においてとうてい錦絵画家の企て及ぶところではない。錦絵画家が球形をただの円でかたづけるところを、石版画家は、砂目の陰影によって球をさながらにして見せてくれる。その不思議さ新鮮さが、人々の胸を打ったのも無理はない。

石版画の風景は 1877 年(明治 10 年)頃すでに刊行されている。印刷局の前身紙幣寮や玄々堂では、かなり精巧なものを出している。キヨソネとその門下、玄々堂では高橋由一がそれに当たっている。一般の石版画額絵は、明治 15〜16 年頃から日本全国あちこち、ついで東京名所を多く出すようになった。錦絵も好んで文明開化の影響を受けた銀座の煉瓦街や蒸気車や鉄道馬車の走る風景を画題にしたが、石版画家がそれを見逃すはずがない。写真のように正確に対象をとらえているとあれば、大衆はおもわずそれに飛びつく。石版画の東京風景は景気よく刊行され、土産絵として驚くべき数が地方へ散っていった。その中に愛すべき作品が少なくないのである。

11.東京九段坂靖國神社遠拜之圖
年代不詳(章業社、出版人原橋伝治郎)

靖国神社は 1869 年(明治 2 年)に創建され、またの名を招魂社という。1877 年(明治10 年)に出版された『東京名所図会』には、「此地は最高の丘にて一目都下を望むべし。坂の右側に石燈あり、天然石を積んで造営し、其高さ数仭夜間は点燈して暗夜迷路者の標(めあて)集たらしむ」とある。この一図、構図・色彩ともに明治石版額絵中の白眉、最大の傑作と吉田小五郎は認める。作者も年代も不詳であるが、おそらく明治 12〜13 年頃、作者はただ者ではあるまい、とも。千枚以上、石版画を仔細に見たが、本図のほかに原橋伝治郎版というのを見たことがないという。

12.墨堤朝櫻ノ景
1883 年(明治 16 年 4 月)

明治時代には小学生が作文に「一瓢を携えて墨堤に遊ぶ」と書いたとよく話題に上る。墨堤はすなわち墨田川堤で、当時小金井とともに郊外の桜の名所で、レジャーの好適地であった。したがって、石版額絵の中には墨堤 を取り扱ったものがなかなか多い。多くは花の下を踊り狂いへべれけの狂態を描いたものである。ところで、これは墨堤それもすがすがしい朝の桜である。明治 16 年製であるから額絵の風景としても古く、珍品である。このあたりいわゆる百本杭、清親も夕暮れの百本杭のあたりを映しているが、これはみずみずしい清らかな朝の風景である。

13.上野ステーション之圖
年代不詳 

この図、惜しむらくは画の縁の余白を欠いており、したがって画題も年代も不明である。しかし、1883 年(明治 16 年)、上野・熊谷間、翌 1884 年上野・高崎間に開通した日本鉄道会社の、おそらく明治 16 年の開通式当 時の上野駅であることは疑いない。描法からいっても、色彩・砂目からいっても、この一図明治 16 年は動かぬところである。洋装の外国人を現す手段であったろうか。鉄道馬車が一台止まっているが、これは前年の明治 15 年に開通したはずである。赤い助骨のついた軍服姿、お上りさん、インバネス紳士の後ろ姿、二頭立ての馬車・人力車、明治時代の道具は一応揃っている。当時を知らなくとも懐かしく見られるではないか。

14.東京淺草觀音之景
1885 年(明治 18 年 8 月、出版人亀井至一、画工福宮源次郎)

錦絵にも浅草寺を取り扱ったものが多いが、石版額絵にもまた少なくない。正前から見たもの、横合いから見たもの、また裏側の弁天池から見て描いたものさえある。これは無論、横東から見た浅草寺である。明治 18 年といえば、浅草にオペラや活動写真はまだなかったが、境内に俗称植六、植木屋六三郎の経営する花屋敷、揚弓店、早取り写真の店や、パノラマや、松井源水独楽廻しの芸人は見られたはずである。左端、大木の下にはすでに洋式のベンチが置かれている。参詣人はほとんど和服であるが、紳士は山高帽をかぶり、ステッキまたは洋傘を手にしている。仁王門、五重の塔、本堂の紅はやぼくさいようであるが、その中に最盛期の石版画の一面の特色がある。

15.吾妻橋眞景
1887 年(明治 20 年 12 月、画工兼出版人矢島録)

当時「巨大宏壮実に都下に冠たり」といわれた吾妻橋は、明治 20 年 12 月の竣工であるから、この一図、竣工とほとんど同時に売り出されたものである。石版画家がその功を急いだことが見えるがいかにも素速い。吾妻橋はたちまち、錦絵や石版画の好画題となった。石版画の中に吾妻橋を角度を変えて描いたものがいろいろあり、橋下を遊覧船が走り、橋際に屋台店を出した夕景色などもある。洋画の透視画法がよく効いて写真なりとし、競ってこの絵を求め、田舎への良きみやげとなったであろう。

16.第一國立銀行之景
1887 年(明治 20 年、清水市郎版)

1873 年(明治 6 年)、国立銀行条例が定められ、明治10 年、第一国立銀行が設立された。日本橋の兜町、当時海運橋際に五層楼の洋館で異様な姿であった。『東京名所鑑』(相沢求著、明治 25 年)に、「海運橋際車詰兜町にあり……慶応の頃国益会社となり、維新後蚕糸改所を置きまた、商法局となり、遂に第一銀行となる。五層の煉瓦造にて屋尖高く雲霄に聳立す、建築師は有名なる清水喜助氏にて吾邦銀行の権輿なり、渋沢栄一氏社長として総括せり」とある。明治 5 年の火災で焼けた築地ホテル館も清水喜助の作品であった。何かハイカラなお城のようにも見える。当時の名所絵には往々にして肋骨のついた軍服姿の軍人を配してある。西洋と同様、軍人は当時、一種あこがれの職業だった。これが全体にうまく味をきかせている。

17.東京日本橋之景
1888 年(明治 21 年、出版印刷兼発行人清水市郎)

日本橋が初めて架けられたのは、1603 年(慶長 8 年)のことというが、その翌年、すでに日本全国里程の元標になった。その後、架けかえられたのは幾度であるか。 1885 年(明治 18 年)、日本橋に大火があったから、これはおそらくその後に架けかえられたのであろう。もとは欄干に擬宝珠がついていたはずだが、これは橋ぎわは石造でガス燈がついている。近辺小田原町には魚河岸があり、天秤棒をかついだ人がいるから、朝景色に違いない。当時の人に言わせれば、「車馬絡繹として織るが如く」とあるが、犬も戯れてどこかのんびりしている。それより、河岸に白壁の倉庫が立ちならび、高層建築もスモッグもない時代だったから、千代田城は勿論、富士山がくっきりと見えている。絵そらごとではなかったであろう。

18.龜戸天滿宮太鼓橋之圖
1888 年(明治 21 年、画工兼発行人藪崎芳郎)

亀戸の太鼓橋は広重の「名所江戸百景」の中にもある。よく亀戸と書いて「カメイド」と読ますのは天神前の池が井の代理をしているからだそうだ。それにしても、この一図、嬉しいではないか。構図の妙を得ているといった気がする。赤い毛氈を敷いた茶店の腰掛けには煙草盆のほか、人をおかず、太鼓橋の頂上に山高帽の紳士、手前の橋の袂にそのかみさんらしい婦人と小娘、彩色もどこか取りのこしたといった風情である。ことに藤を白くそのままにしているところに尽きぬ味わいがある。無名の画工の筆のすさびであろうが、これを名画と見たい。

19.淺草凌雲閣之圖
1890 年(明治 23 年、勝山繁太郎)

1890 年(明治 23 年)11 月、浅草の奥山(公園の裏手)に、久保田万太郎の言を以ってすれば「十二階と云う頓驚なものが突っ立」った。英人バンドンの設計になるもので、総煉瓦造り、高さ三十六間(約 65 メートル)、当時にすれば格外の建物であった。「凌雲閣」といい、一名を「十二階」と称した。最初エレベーターの設備があったが、間もなく廃止した。中央に螺旋形の階段があり、一段ずつ上っていく。中に売店、見世物、演劇、舞踊場などあり、十階目に休憩茶屋があり、望遠鏡が備えてあった。この一図、縁を欠いて真の画題と版元は不明であるが、明治 23 年「浅草凌雲閣之図」で勝山繁太郎版に違いない。同年には同類の図が各社から発売された。

20.兩國之花火
1890 年(明治 23 年、画作及び印刷兼発行人勝山繁太郎)

広重の「名所江戸百景」の中に「両国橋花火」というのがある。いとも淋しい絵である。川開きの行事は 1733 年(享保 18 年)に始まったというが、1962 年 (昭和 37 年)に火災の危険があるとあって、惜しくも中止になった。岡部啓五郎の『東京名勝国会』(明治 10 年)に、「例年五月二十八日(新暦以来七月上旬を例とす)川開と号(なづ)け煙火の戯れあり。此夕両岸の酒楼茶屋は申もさらなり、江上の遊船数万の燈を点じ、千客万賓深更まで遊興を極む、橋上岸頭は数万の観者雑遝(ざっとう)する宇内に未だ聞かざる一壮観なり」とある。文章の誇張もまたおもしろい。清親の大錦「両国花火之図」より無名画工のこの図を採る。

*本解説は『明治の石版画』(昭和48年 春陽堂)に掲載された作品解説(吉田小五郎・著)を、修正・再編集しています。

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